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一つ目の原則・ストレスと認知について老子を参考に。



ストレス対策に原則的なものが2つあると述べました。

まずは、1つ目の精神的ストレスを大脳皮質から自律神経に伝える有害な神経経路の形成を防ぐことについて触れていきます。

つまり、ここで取り上げようとする課題は「認知」ということになります。

認知とは、「考え方、受け止め方」と考えていいでしょう。

そこで、まず、バランスセラピーの「自然観」を理解する意味で、東洋と西洋の自然観を比較してみます。







 古来、東洋と西洋では人間観や自然観に相違がある。西洋の自然観は自然を征服、支配する対象として「自然は神聖にあらず」としている。こうした西洋の自然観は神と人間を分離し、人間と自然を分離させて対立させる。この背景には、人間中心的なキリスト教が大きな影響を与えた。一方、東洋では、「自然は神聖なり」という考え方が支配的である。これは東洋が自然豊かないのち溢れる環境を持ち、自然と一体になり、自然と共に生きる考え方を生みだしている。また、東洋の自然は、西洋の規則的な自然と異なり、変化が大きい。人知を超える自然界の変化は東洋にとっては脅威であり、ただ、忍従して生きることが必要であった。つまり、東洋においては、やさしさと厳しさの二面性を有しているのである。このような自然を土壌にして、無為自然の思想が生まれた。






 東洋的無為自然の思想の源泉は老子にある。自然は神聖なものであるゆえに、自然に従って生きることをよしとする考えは、その結果として、人間の一切の作為や計らいを、望ましくないものとして斥けるものである。人間の作為が加わっていない状態、つまり、無為にして自然を理想とする思想である。




 このような老子の教えの根本は「道」にある。道とは、万物の根源であり、また究極的な実在である。老子はそれを名なき混沌と考えている。道は、どんな意味でも限定されることのないもの、しかし、一切がそこから生じ、また一切のものが再びそこに戻っていく根源と考えられている。また、同時に一切の価値の根源でもある。そして、根源としての道から生じた価値は「徳」と呼ばれる。徳とは現実に顕現した道のことである。老子の無為自然という思想の深淵には「徳」という概念があることに注目しなければならない。




老子は、人間を自然の一部として自然の采配を受ける存在であることを述べている。これは、人間が采配を受ける自然に対する絶対的な信頼を示している。なぜならば、自然そのままが真理であり、「徳」は自然から人間が受ける采配の根底にあるからだ。

 老子の無為自然の源泉には、人間と自然の区別がない。区別がないというより、人間は「極端でなく、偏らない、ありのまま」の自然な存在であることを意味している。




 現代に生きるわれわれは、自分に都合のよいことは受け入れ、そうでないものは、排除していく傾向が強い。そして、この傾向は人間社会をますます複雑にしている。老子の思想は、このような、分別、作為やはからいを除き、われわれ自身が自然の一部であることを自覚的に信頼することで、望ましい生き方ができると述べている。老子のいう無為自然は、究極の人生観であり、深慮であると考える。


老荘思想というが、万物斉同の哲学を呈した荘子も道を説き、無為自然を説いている。荘子の特徴は、その無為自然論に主体性があることである。無為自然とは、単に自然に従うとか、自然に身を任せることではなく、万物の根源である道に主体的に、自由に心を遊ばせるということである。ここで、遊ぶという意味は、他から強制されないで自らが能動的に行なうという意味である。このことは、老子の無為自然に対して有意自然というべきものでもある。




古代ギリシアの自然観は、物質・生命・人間・国家・神など、一切のものを包み込む生きた統一体であり、生命的な原理であると考えられていた。総じて古代のギリシア人の自然観には物活論的な要素がある。

聖書の自然観はギリシア人の自然観とは大きく異なる。聖書においては、自然は創造主である神によって造られたものであり、人間が支配して統治するものであるとして、自然は人間よりも一段低い位置に置かれている。



中世の自然観においては、自然は人間の利用のために創られているという観念が人々の意識の中に浸透していった。そして、このような人間中心的なキリスト教的自然観の基礎の上に、自然を人間と対立するものとして、これを客観的に分析し、その内にある原理や法則を発見することによって、自然を支配し利用するために自然科学が発達していったのである。科学は、「自然は神聖にあらず」として、自然と人間を分離させた考え方である。




 そして最後に、自然が生命を欠いた機械的、物質的世界と考えるに至る。このような自然支配の思想は、科学や技術の産業化を産み、科学が人間の欲望に奉仕する傾向を持つようになっていく。つまり、科学や技術が手段化され、理性が目的にかなう能力ではなく、任意の目的に対する手段の適合性を問う道具と化していく。

 西洋人は「無」を形のないものとして消極的に理解しているが、これに対して東洋人は無を一切の形の根源であり、一切の形を生み出す働きとして積極的に理解してきた。東洋における自然観は、自然がそのまま真理であり、また望ましいものとする考えが根底にある。人間が自然の懐に抱かれ、その中で憩うことに人間の望みうる最高の喜びがあるとしている東洋の自然観は、自然から搾取するという西洋の自然観と全く対立している。



 日本でも老荘思想にみられるように、自己の作為を否定して、あるがまま自然に身をまかせることが人間の望ましい生きかたであると考えられてきた。これは前述している日本の豊饒な自然の影響を受け、自ずから生まれ出ている思想である。この自然観が一つの思想まで高めた人として親鸞と道元を考察してみる。

 親鸞の自然法爾の思想は、一切のことが阿弥陀仏の御心のままにおこなわれることを願うしかないとしている。親鸞は、人間の作為やはからいを排除しなければならないと述べている。

親鸞は自然を「おのずからしからしめる」と解説するように、本願の「みずから」への働きとして解釈することにより、自然法爾の思想を展開していった。



 道元は、正法眼蔵において「自然成」を説いている。道元によれば、自然に成ずるということは、因果によって成ずるということであるが、ここで述べられている因果は何ら私心がない公のものでなくてはならないとしている。したがって、自然に成ずるとは、あるがままの真実なものから、公のあるがままの因によって、あるがままの果が生ずることである。道元において「心身脱落」とき、自然と自己は一つとなり、本来的な姿を現わす。ここでは、善は自ずと行なわれ、悪は避けられる。また、道元ほど自然を通じて諸説を説いている仏教者は他にいない。


 西洋と東洋の自然観の違いは、「自然は神聖である、神聖ではない」という考え方の相違でもある。また、西洋は自然を征服、開拓する対象にしているが、東洋は、自然から人間が学び、自然から人間が守られていると考える。

自然を考えることは、人間の生きる世界が、実に深く、広がりのある世界であることを知ることができる。老子は、人間の生き方を自然から見出そうとしている。老子の無為自然の思想からは、人間がどう生きればよいかという示唆が豊富に発見できる。親鸞は、自然法爾の思想で、「おのずからしからしめる」は阿弥における自然で、「おのずからしからしめられる」ことは行者における自然という。まさに、分別や意図も作為もなく、両者は一体である。親鸞の自然観は、自然は自己の外にあるのではなく、自己に内在するものであり、真の自己が自然であり、自然こそ真の自己であることを説く。





 道元の身心一如の自然観は、デカルトに代表される特に近代西洋の二元論や機械論的人間観とは対照的である。西洋の自然観の基礎には、創造者としての神から与えられた理性によって対象としての自然を捉え、自然を支配、管理するキリスト教的自然観がある。そしてそれが近代以降の科学技術の発展の基礎となった。それらがわれわれにもたらす多大な利便性や豊かな生活をもたらしたと同時に、地球環境問題や様々な生命倫理や医療倫理問題を生じさせたのである。人間の心臓や臓器をまるで車の部品のように交換するなどはまさに、この例である。



 老荘思想をはじめとした自他一如の自然観や身心一如の人間観は、こうした現代科学がもたらした様々な問題を克服し、人間が真に自然と共存して、自然界に生かされている存在として自覚を持つうえで極めて重要な思想である。しかし、現代社会の持つ複雑で混沌とした状況の中で、環境論などの視点から見れば、安易な自然主義ではなく、実効性のあることを考えることも重要であることは、いうまでもない。




 東洋と西洋の自然観を考察し、その相違について述べてきた。しかし、西洋でもスピノザの「神即自然」などがあり、「自然は神聖である」という思想があることを付け加えておく。