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技術と修証一如

修証一如についてテキストの解説は、「実践していることがすでに求めている結果と同じである」「実践している瞬間こそ素晴らしい成果である」と記している。

一般に何かを高めようとする場合には、目指すものに向かって上達することが求められるが、修証一如は、それを否定している。いったい、修証一如とは何を指しているのだろうか。ここではテキストの意味を掘り下げていくことにする。

修証一如は、修証一等と呼ばれる道元の立場(只管打座)を指している。道元において「修」と「証」は一つのものなのである。

修証一如は、証のうえでの修なので、初心者の修(修行)がそのまま本来の「証」のすべてであり、「修」の他に「証」を待ちうけてはならないとして、修がそのままの本来の証の直截的開示であるからに他ならない。修の証であるから証に終わりはなく、証の修だから修には始まりがない。

つまり、「修」という道のりのはてに「証」があるのではなく、「修」の一歩一歩の積み重ねではなく、そのまま本来の「証」の全体である。重ねて言えば、証は修の先にあるのではなく、修の結果として予定された到達点でもない。「証」は本来のものでありながら、「修」の歩みを通じてしか現存せず、その一歩一歩の歩みのうえに絶えず実現され続けなければならないものである。といった意味である。

このことをすこぶる単純化していえば、「すでに完成している、だから修行する」「修行し続けているから完成している」という論理である。ここで、誤解がないようにしなければならない。道元のいう「証」とは、頭であれこれめぐらせる観念妄想ではなく、考える余地などがない不断の修であることだ。なるほど、道元はやはり考えれば考えるほど難解である。

 

上達したいとか、できるようになりたいとか、そういう作為を一切捨てて、目の前にある技術にただひたすら専念する。その実践の瞬間、瞬間にあなたの素晴らしい資質が引き出されて輝いていく。「考えるのではなく」ひたすら今このときの「実践」があるだけ。修証一如に次はないのである。