東洋の自然観
- 2012.05.8 | ストレスケア
古来、東洋と西洋では人間観や自然観に相違があります。
西洋の自然観は自然を征服、支配する対象として「自然は神聖にあらず」としています。
こうした西洋の自然観は神と人間を分離し、人間と自然を分離させて対立させています。この背景には、人間中心的なキリスト教が大きな影響を与えています。
一方、東洋では、「自然は神聖なり」という考え方が支配的です。
これは東洋が自然豊かな命溢れる環境を持ち、自然と一体になり、自然と共に生きる考え方を生みだしているのです。
また、東洋の自然は、西洋の規則的な自然と異なり、変化が大きく、人知を超える自然界の変化は東洋にとっては脅威であり、ただ、忍従して生きることが必要でありました。
つまり、東洋においては、やさしさと厳しさの二面性を有しているのです。このような自然を土壌にして、老子の無為自然の思想が生まれました。
東洋的無為自然の思想の源泉は老子にあります。自然は神聖なものであるゆえに、自然に従って生きることをよしとする考えは、その結果として、人間の一切の作為や計らいを、望ましくないものとして斥けるものであります。
人間の作為が加わっていない状態、つまり、無為にして自然を理想とする思想です。
老子は、人間を自然の一部として自然の采配を受ける存在であることを述べています。これは、人間が采配を受ける自然に対する絶対的な信頼を示しています。なぜならば、自然そのままが真理であるからです。
老子の無為自然の源泉には、人間と自然の区別がありません。区別がないというより、人間は自然と同じように「極端でなく、偏らない、ありのまま」の自然な存在であることを意味しているのです。
現代に生きるわれわれは、自分に都合のよいことは受け入れ、そうでないものは、排除していく傾向が強く働いています。
そして、この傾向は人間社会をますます複雑にしています。自然を信頼するという意味は、このような、分別、作為や計らいを除き、われわれ自身が自然の一部であることを自覚的に信頼することで、望ましい生き方ができると考えます。
自然性は、究極の人生観であり、深慮であると言えます。
また、老荘思想とも言いますが、万物斉同の哲学を呈した荘子も道を説き、無為自然を説いています。
荘子の特徴は、その無為自然論に主体性があることです。無為自然とは、単に自然に従うとか、自然に身を任せることではなく、万物の根源である道に主体的に、自由に心を遊ばせるということです。
ここで、遊ぶという意味は、他から強制されないで自らが能動的に行うという意味です。このことは、老子の無為自然に対して有意自然というべきものでもあります。
日本でも老荘思想にみられるように、自己の作為を否定して、あるがまま自然に身をまかせることが人間の望ましい生きかたであると考えられてきました。これは日本の豊饒な自然の影響を受け、自ずから生まれ出ている思想です。この自然観を一つの思想まで高めた人として親鸞(1173-1262)と道元(1200-1253)がいます。
親鸞の自然法爾の思想は、一切のことが仏の御心のままにおこなわれることを願うしかないとしています。
また、親鸞は、人間の作為やはからいを排除しなければならないと述べています。親鸞は、人間の現実の利益を優先させる考え方に痛烈な批判を展開させています。
道元は、正法眼蔵において「自然成」を説いています。
道元によれば、自然に成ずるということは、因果によって成ずるということでありますが、ここで述べられている因果は、何ら私心がない公のものでなくてはならないとしています。したがって、自然に成ずるとは、あるがままの真実なものから、公のあるがままの因によって、あるがままの果が生ずることであります。
道元において「身心脱落」の意味は、自然と自己は一つとなり、本来的な姿を現わすとしています。ここでは、善は自ずと行なわれ、悪は避けられると述べています。
道元ほど自然を通じて諸説を説いている仏教者は他にいないでしょう。
このように自然を考えることで、人間の生きる世界が、実に奥深く、広がりのある世界であることに気づくことができます。
そして、バランスセラピー学の自然観は自然を注意深く考察することで、人間がどう生きればよいかという示唆が豊富に発見できることを説いています。
自然は自己の外にあるのではなく、自己に内在するものであり、真の自己が自然であり、自然こそ真の自己であることに気づいていくのです。