徒然に自然を語る。
- 2011.12.25 | 自己実現/自己向上
古来、東洋と西洋では人間観や自然観に相違がある。
西洋の自然観は自然を征服、支配する対象として
「自然は神聖にあらず」としている。
こうした西洋の自然観は神と人間を分離し、
人間と自然を分離させて対立させる。
この背景には、人間中心的なキリスト教が大きな影響を与えた。
一方、東洋では、「自然は神聖なり」という考え方が支配的である。
これは東洋が自然豊かないのち溢れる環境を持ち、
自然と一体になり、自然と共に生きる考え方を生みだしている。
また、東洋の自然は、西洋の規則的な自然と異なり、変化が大きい。
人知を超える自然界の変化は東洋にとっては脅威であり、
ただ、忍従して生きることが必要であった。
つまり、東洋においては、やさしさと厳しさの二面性を有しているのである。
このような自然を土壌にして、無為自然の思想が生まれた。
無為自然の思想の源泉は老子にある。
自然は神聖なものであるゆえに、
自然に従って生きることをよしとする考えは、
その結果として、人間の一切の作為や計らいを、
望ましくないものとして斥けるものである。
人間の作為が加わっていない状態、
つまり、無為にして自然を理想とする思想である。
このような老子の教えの根本は「道」にある。
道とは、万物の根源であり、また究極的な実在である。
老子はそれを名なき混沌と考えている。
道は、どんな意味でも限定されることのないもの、
しかし、一切がそこから生じ、また一切のものが再び
そこに戻っていく根源と考えられている。
また、同時に一切の価値の根源でもある。
そして、根源としての道から生じた価値は「徳」と呼ばれる。
徳とは現実に顕現した道のことである。
老子の無為自然という思想の深淵には「徳」という概念があることに
注目しなければならない。
老子は、人間を自然の一部として自然の采配を受ける存在で
あることを述べている。これは、人間が采配を受ける自然に
対する絶対的な信頼を示している。なぜならば、
自然そのままが真理であり、
「徳」は自然から人間が受ける采配の根底にあるからだ。