豊富なセミナー&イベント・講座のご案内はこちら

NEWS

お知らせ

「ヨブ」の話し。善因善果を超えるものは?

11日になったところです。今日は祝日だから

私も久しぶりの休みです。


建国記念日ですね。最近、改めて日本書記を読みました。

神様が最初に作った国は「淡路島」だとあります。



明後日は、真織さんとの対談です。

お時間が合えば、聴きに来てください。


さて、授業でも話している「ヨブ」について考えていきます。



ヨブ記から



「ヨブ記」は旧約聖書に収められた、智恵文学の一つである。その中で注目したいものは、「その人は全くかつ真く、神を畏れ、悪を遠ざけた」信仰篤き人間がなぜ災いを受け、不信で不誠実な人間が安楽に暮している現実問題である。(岩波新書 関根正雄訳を参考に)


ヨブ記の中には、なぜかこの問題に対する「解答」が示されていない。

因果応報である、善因善果、悪因悪果は、神にとっても都合のよい法則であり、人々の信仰の拠り所になるにも関わらず、この問題に疑問を与えるような記述である。

敢えて、人間の思惑など否定するような、苦しみの中から人知を超えた最も価値あるものを与えるために、神は善人に苦悩を与えているのだろうか。神に生活の安穏を求めれば求めるほど、そこから離れて行くことに、その矛盾の中に真理はあるのだろうか。



彼の妻が彼に言う、「あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだら良いのに」。ヨブは「お前の言うことは愚かな女の誰かが言いそうなことだ。われわれは神から幸いをも受けるのなら、災いをも受けるべきではないか」。



ヨブ記は、ヨブの受難を通じて、因果応報の教理と現実の乖離を痛感し、因果応報の限界と、その根底にある人間中心主義的思想の不遜を暴露している。そして、ヨブの回心を通じて、閉塞していた世界から一転して、神との和解に到達させている。



200頁ほどの文庫本である。是非読まれることを薦める。

善因善果を拠り所に生きることは、人生に置いて「徳」となるが、それだけでは、「まさかの坂」は通れない。この意味でも自己受容は善因善果を超越した生き方ではあるまいか。



次回は歎異抄を参考に「生きる」ことを考える。