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お知らせ

善因善果説

50代の管理職の男性が突然転勤を伝えられ自殺未遂をしました。年間3万人以上が自殺している現代社会において、ある意味、交通事故で亡くなる人よりも多い社会現象なので、けっして珍しい話しではありません。



会社への不信感、これまでの貢献的な仕事を認めてくれなかったという信頼の喪失、新築の家のローン、子どもの学費、単身赴任への不安など様々なことで悩んだあげくのことでした。



 初めは、不眠症になり、体調を崩してしまい心療内科や心理カウンセラーの所へも相談に行きましたが、彼の自殺行動を止めることはできませんでした。



 彼の心に強く働いたモデルが「善因善果説」なのです。頑張れば認められる、頑張れはきっと伝わるという考え方は、けっして悪い考え方ではありません。



むしろ、人間の行動を努力と善に向かわせるモデルだということが言えます。しかし、すべての人の行動が報われるのでしょうか。


逆に、頑張っても思いどおりにならない、自分の気持ちが伝わらないということの方が多いのではないでしょうか。


問題は、自分の考えていることと逆の結果を体験した時です。この時に、善因善果説を頼りに生きている人は、大きな挫折感、喪失感を得ることになるのです。



 幸いなことに、この50代の男性は自殺未遂後にストレスケアを身につけ、自分自身に応用しました。リラクセーション状態を作り出すこと、自己受容の能力を高めて行くことに取り組んだのです。その結果、彼の人生は別人のように一変しました。


今では、これまでの経験が新しい生き方を発見するための必要なことだと受けとめ、家族とイキイキとした人生を送られています。



 私たちの人生は、体験が集まったものではなく、受け止め方の結果に現れる感情の集まりなのです。



「ヨブ記」は旧約聖書に収められた、智恵文学の一つです。「歎異抄」は親鸞の没後ほぼ20年から30年後に唯円によって著したとされている文献の代表的な一つです。




ヨブ記と歎異抄は、因果応報を否定する「ヨブ記」、絶対的な他者により救われるという「歎異抄」において、一見対立しているように見えます。




しかし、善因善果という人間本位の思想に対する啓示と歎異抄が示す、絶対的な他者に身をまかせることは極めて同じ世界観なのです。


現生における苦しみと現世における宿命的な苦悩は、超えられるものではない。そこにあるのは、救いと寛容の世界であり、慈悲の世界であることが述べられています。




「ヨブ記」も「歎異抄」も人間の分別では、思いはかることができないことを教えています。


善人だからという人間の基準で「神」や「阿弥陀仏」は人間を救うわけではない。なぜなら、それは人間の識別以外の意志であるからと説いています。




 親鸞は人間の救済を、人知を超える力に求めていることは明白です。それは、人知の枠の中では救済が得られないからです。



親鸞は自然と生じる、救われたいという願いを拠り所に救済の道としているように思えます。それは、自力による救済への諦めであり、人間にとって自力が無力であるという親鸞の認識でもあるのでしょう。




「ヨブ記」における、ヨブの体験は自力の体験であり、この自力に対して神は、ヨブに答えようとはしていません。それは、すでにヨブ自身の中に答えがあることを意味しています。




また、キルケゴールは「無限の諦めは、信仰に先だつ最後の手段である」と説き、無限の諦めによって、私たちは私たち自身の永遠の価値を自覚することで、信仰が人間の幸福に結びつくことを述べています。


彼のいう「無限の諦め」とは、悲愴で消極的な意味ではなく、われわれの知的理解の限界を諭す意味であり、親鸞がいう「意図や作為」の無力なことに対する自覚でもあります。


つまりは、人間の不可能なことに対する理性の働きが、平和と安息をもたらし、幸福を得ることになると彼は説いているのです。

思議とは「考える」あるいは「分別」のことです。つまり、不可思議の意味は、物事を良いとか悪いとか考え、分けることは本来の自然性ではなく、また、その自然性は知性で理解できるものではないということです。




結局、善人、悪人という識別をしないことや人を裁かないという慈悲のみが、人間を許しと寛容という平和な世界に導いていくことになります。




「ヨブ記」「歎異抄」、キルケゴールの「おそれとおののき」とも、人間の乗り越えられない苦悩、人知ではかなわない宿命に立ち向かっていく悲しみの中に、人生の価値や意味が隠されていることを示唆しています。




そして、その人生の価値や意味とは、自分自身の体験には一切無駄なことはなく、その体験は自分自身の人生を成長させるためのものであることを教えています。


自己受容の広がりと深さを知性ではなく、直感、あるいは脳幹で感じる。これは、究極のリラクセーションでもあるのです。