古典を引き出せば、アリストテレスの言う「幸福」は、各人がもって生まれた生来の資質を現実的に満遍なく開花させて、その資質を最も優れた立派な形で発揮することできるようになっている持続的な状態のことである。


また、「幸福」そのものは魂の活動という観点から捉えられ、しかも人間自身の努力の結果、獲得されるものであると性格付けられていることが見逃されてはならない。




一体、幸福とはなんであろうか。


社会という人間関係の複雑な枠組みの中で、持って生まれた資質を活かして開花させることが可能であろうか。


ある意味、私たちは自分の個性に仮面をつけて生きていくことを強いられている。


もっと自由に、人間らしく生きるとはどのようなことであろうか。



アリストテレスのいう「幸福」には、そのヒントが隠されている。


それは、幸福の活動が「魂」であり、個人の努力によって性格づけられるという点である。


ヘーゲルは、人間的熟達に「精神的労働」を説いている。


彼のいう労働とは、精神の崩壊を意味している。つまり、人生の挫折や失意である。


この崩壊に連続して人格の統合を果たすことが必要だと述べている。




現代人に幸福が欠けているとすれば、それは、無気力な人たちに共通している生活の姿勢である。


自分の好きなことには積極的になれるが、嫌いなことはしない。


自分らしさを取り違え、無理をしないで生きていこうとする態度、褒められることだけに価値を求め、苦しさの中から人生の宝を見つけようとしない。


これでは、魂は冷えるばかりである。


魂はある種の摩擦熱で燃えている。


摩擦とは心の葛藤にほかならない。


自己受容という意味は、自分と異質なものとぶつかり合う衝撃、その摩擦によって魂が殻を破ることである。


自己受容は現状突破の鍵を握る。その時の心の痛みは、新しい精神の出生の痛みである。




近年、褒めることによって得られる人間的成長を期待するあまり、否定されることへの過度な脅迫観念で社会は溢れている。


人間は褒めれば成長するという論理は、それが分かりやすく行動への引き金になるからであろう。


しかし、弾んだボールが次第に弾まなくなるように、人生は常に評価される場面だけで生きていくことはできない。




人から認められる、あるいは自分を否定しないことは大切である。


しかし、それ以上に大切なことは、依存から脱却することである。


自律して生きていくためには、学ぶことが必要になる。



人間は、自分の考えているとおりにならないことから真理を学ばなければならない。


その摩擦によるエネルギーによって心が磨かれ、人生という時空の高みに至らせてくれるのではなかろうか。