老子の無為自然の源泉には、人間と自然の区別がない。


区別がないというより、


人間は「極端でなく、偏らない、ありのまま」の


自然な存在であることを意味している。




現代に生きるわれわれは、自分に都合のよいことは受け入れ、


そうでないものは、排除していく傾向が強い。


そして、この傾向は人間社会をますます複雑にしている。


老子の思想は、このような、分別、作為やはからいを除き、


われわれ自身が自然の一部であることを自覚的に信頼することで、


望ましい生き方ができると述べている。老子のいう無為自然は、


究極の人生観であり、深慮であると考える。



老荘思想というが、万物斉同の哲学を呈した荘子も道を説き、



無為自然を説いている。荘子の特徴は、




無為自然とは、単に自然に従うとか、自然に身を任せることではなく、



万物の根源である道に主体的に、自由に心を遊ばせるということである。



ここで、遊ぶという意味は、他から強制されないで



自らが能動的に行なうという意味である。


このことは、老子の無為自然に対して有意自然というべきものでもある。



荘子はこの無為自然を人間の死についてよく説いている。




それは人力でもってしては、いかんともしがたいものであり、


したがってわれわれはそれを従容として受けいれるほかはない。


それに逆らったり背いたりしても無益である。


そうした作為は愚痴以外のなにものでもない。


次に、生死は連続した循環であり、それは昼夜の交代と同じく、


自然の変化の理にしたがっている。



それだから、生死を別々のものとして切り離して考えるのは


誤りであって、それを斉同なものとして、


また一体にして不二なるものとして受けとらなければならない。


ここでは、生死は個物の側から、個物の関心に即してではなく、


反対に自然や世界の側から、


その生成と消滅の変化の一部分として客観的に見られている。


生死は肯定されるべきものでも否定されるべきものでもなく、


あるいはのぞましいものでも厭うべきものでもなく、


善悪無記のものとして、そのあるがままに


受けいれられなければならないと説かれる。


生死についての一切の分別や作為が斥けられ、


無為にして自然にしたがうことが最善の方策とされるのである。


死後の世界を至福の世界と看做すところに、


荘子の独自の生死観を見ることができるであろう。


そこにあるのは安らぎと憩いである。


荘子的世界においては、



死によって自分という存在が無になってしまうという


ことについての戦慄や恐怖は微塵も見られない。


あるのは平安と休息である。


そしてそれは無為自然生き方の必然的な帰結であるといえるだろう。

その無為自然論に主体性があることである。