古代ギリシアの自然観は、物質・生命・人間・国家・神など、一切のものを包み込む生きた統一体であり、生命的な原理であると考えられていました。総じて古代のギリシア人の自然観には物活論的な要素があります。



聖書の自然観はギリシア人の自然観とは大きく異なります。聖書においては、自然は創造主である神によって造られたものであり、人間が支配して統治するものであるとして、自然は人間よりも一段低い位置に置かれています。



中世の自然観においては、自然は人間の利用のために創られているという観念が人々の意識の中に浸透していきました。


そして、このような人間中心的なキリスト教的自然観の基礎の上に、自然を人間と対立するものとして、これを客観的に分析し、その内にある原理や法則を発見することによって、自然を支配し利用するために自然科学が発達していったのです。




科学は「自然は神聖にあらず」として、自然と人間を分離させた考え方です。そして最後に、自然が生命を欠いた機械的、物質的世界と考えるに至ります。このような自然支配の思想は、科学や技術の産業化を産み、科学が人間の欲望に奉仕する傾向を持つようになっていきます。



つまり、科学や技術が手段化され、理性が目的にかなう能力ではなく、任意の目的に対する手段の適合性を問う道具と化していきます。



西洋的な自然観は、自然を支配、管理するものです。そして、それが近代以降の科学技術の発展の基礎となりました。


それらが、私たちにもたらす多大な利便性や豊かな生活をもたらしたと同時に、地球環境問題や様々な生命倫理や医療倫理問題を生じさせたことになります。



人間の心臓や臓器をまるで車の部品のように交換するなどはまさに、この例です。

 西洋人は「無」を形のないものとして消極的に理解していますが、これに対して東洋人は無を一切の形の根源であり、一切の形を生み出す働きとして積極的に理解してきました。


 東洋における自然観は、自然がそのまま真理であり、また望ましいものとする考えが根底にあるとしています。人間が自然の懐に抱かれ、その中で憩うことに人間の望みうる最高の喜びがあるとしている東洋の自然観は、自然から搾取するという西洋の自然観と全く対立しています。



東洋と西洋の自然観を比較し、その相違について述べてきました。


しかし、西洋でもスピノザの「神即自然」などがあり、「自然は神聖である」という思想があることを付け加えておきます。