哲学は意味づけや根拠づけをおこないます。すなわち、私たちは、それぞれ歴史的諸事実の蓄積だけに安住できないでいるのです。


なぜ、そうなったのか、なぜ、そうならざるをえないのかと、いわば事実を前にして、その根拠や意味を問わざるを得ないのです。


さらに、この「なぜ」という根拠や意味への問いを、実際に歴史的事実がこうだ、という単純な形で納得せず、なぜ、こうなったのかという「真理」の発見の体験がなければなりません。「学問」という意味も、「私が問うことを学ぶ(習う)」という哲学の基本が込められています。



 西田幾多郎(1870- 1945京都大学教授、名誉教授。京都学派の創始者)は日本を代表する哲学者です。


彼は、哲学を「哲学はあらゆる知識の最高統一であり諸学の学である」と定義し、その意味を「哲学はあらゆる知識の根底を明らかにすることによってそれを統一するものである」と述べています。


 心理学を科学的なものとして位置づけた場合、科学はある事実がなぜ起こったかを「観察」してそれを「説明」という形で理解しようとするものです。


つまり、AとBとの間には「AならばB」という形式で述べられる因果関係の成立からBが生じたと説明する。このとき、判明した法則が事実Aの根拠とされ、先行する事実Bの原因とされるのです。


例えば、人の誕生に関して、精子と卵子の結合を原因とする染色体や細胞分裂に関する法則によって説明されます。したがって、科学とは諸事実に関する法則を探求することが最大の任務であるとされています。


 また、社会科学の場合は、人間の行為や意図が介在するために、事実の説明は事実間の因果関係では不十分になります。それゆえに、研究者自身の「理解」や「解釈」という契機が重要視されます。


心理学を含めて、科学という職業が成立したのは19世紀のヨーロッパです。では、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンたちは科学者ではないのかということは、彼らは神学、哲学、占星術、数学などを研究した「哲学者」として自他の認識がありました。


つまり、もともとは哲学と科学の原点は同じであり、ものを考えるということがすべての原点であるということです。


科学は、今あることが原因になって、次の瞬間の出来事が起きる。原因と結果の間が決定論的な構造にあるとすれば、科学は世界に対する説明と記述を提供することになります。


しかし、その後、われわれは原子や素粒子からなるミクロな世界観を取りいれることになり、ここではニュートン力学的な法則では説明がつかなくなっています。


決定論的世界像ではなく、確率論的な正解像を描き出さなければならなくなっています。