触れ合うことに結実するものが、理解ではないのかと思う。


結実するからには、触れ合うからには、離れていなくてはならない。


ある程度の距離感がなくてはならない。


いつも、ともに過ごし、お互いが相手に合わせ


自分を殺して我慢しているという状態では(抑圧)、


共にいるように見えても、単に依存しあい、


寂しさをまぎらわせているだけであって、


心が触れ合うこともなく、理解とは呼べないと思う。


それぞれの時間の流れのそれぞれの孤独な時間の中で形作る。


上下関係、従属関係ではなくて、対等なそれらが、


互いに離れているからといって、見放しているわけではない。


距離を置くからといって、無関心でいるわけではない。


互いに、見てないようで見てる。関心を向けている。


そして、触れ合う瞬間を経験しようとするのだ。


ホメオストレッチはそんな関係の中で育まれていく。