こんにちは、授業でも時々話している「ヨブ記」の続きです。


現代は、「幸福でなければならない」という強迫的な観念が蔓延しています。そのために、誰もが「幸福」という実体のないものを探し続けています。


本当の幸福とは・・・・

それは何かを体験していることではなく、あるいは、誰かに認められることでもなく、自覚的な人生を展開することに他なりません。


このあたりの考察をもう少しお付き合いください。


カントとヨブ記 


カントは、前回述べたように「弁神論」、理論理性の立場から実践理性の立場へと進む。

キリスト教の教義に寄りかかった理性の解釈ではなく、実践理性の解釈である、いわば自己の中から直接神の声を明らかにすることを「ヨブ記」に見いだしている。




 カントはヨブの友人の神に阿った態度とは対照的な因果応報に対する懐疑的態度に注目している。

実際には信じていないのに、あたかも信じているかのような語らいに虚偽があり不信仰があるとした。



真の信仰とは、当然、臆することなく自ら感ずるところを

率直に素直に語るものである。



気をつけて悪に向かわぬようにせよ、

このために君は苦しみによって試されたのだから。

見よ、神はその力のゆえに高くされる。

彼のごとく教えるものがあろうか。

誰か彼の歩む道を彼の上に被い

誰か「あなたは不法を行った」ということができるか。


 上はエリフの弁論である。


エリフはより細かい教義的解説をしているが、ヨブの中心的問題の解決を与えたものではない、しかし、「気をつけて悪に向かわぬようにせよ」という介入は興味深い。


ソクラテスは、[正義を知ってそれを行わないのは、正義を知らないからだ」と説いた。


しかし、パウロがいうように、「私は私の欲する善を行わず、悪と知りながら悪を犯してしまうのである」と述べた方に人間としての苦悩がある。カントのいうように、ただ人間は意志にのみ基づいていないである。


 現代社会において、すべての人はけっして平等ではないことは誰もが知るところである。現代の資本主義、民主主義は機会の平等は与えていても、結果においては不平等が起きる。


しかし、あたかも公平であることを装い、平等でも公平でもないものをそのように繕うことは、「ヨブ記」の三友にみられる神への諂いと同じ態度ではなかろうか.


ヨブはその点で、真摯に問題に対立して自分の本心を貫いている。