さて、「認知」の続きをはじめます。

ストレスケアの必要な要素は2つという話を

以前に書きました。

再度、紹介します。


1つは精神的ストレスを大脳皮質から

自律神経に伝える有害な神経経路の形成を防ぐこと




2つ目は、すでにできてしまった有害な連絡を遮断することです



認知の問題は、1つ目の、精神的ストレスを大脳皮質から

自律神経に伝える有害な神経経路の形成を防ぐこと。

2つ目は、すでにできてしまった有害な連絡を遮断することに

不可欠な要素です。




因果応報の否定

ヨブ記と歎異抄は、因果応報を否定する「ヨブ記」、絶対的な他者により救われるという「歎異抄」において、一見対立しているように見える。

しかし、善因善果という人間本位の思想に対する啓示と歎異抄が示す、絶対的な他者に身をまかせることは極めて同じ世界観である。現生における苦しみと現世における宿命的な苦悩は、超えられるものではない。そこにあるのは、救いと寛容の世界であり、慈悲の世界である。




「ヨブ記」も「歎異抄」も人間の分別では、思いはかることができないことを教えている。善人だからという人間の基準で「神」や「阿弥陀仏」は人間を救うわけではない。なぜなら、それは人間の識別以外の意志であるからだ。


 親鸞は人間の救済を、人知を超える力に求めていることは明白である。それは、人知の枠の中では救済が得られないからである。親鸞は自然と生じる、救われたいという願いを拠り所に救済の道としているように思える。それは、自力による救済への諦めであり、人間にとって自力が無力であるという親鸞の認識でもある。「ヨブ記」における、ヨブの体験は自力の体験であり、この自力に対して神は、ヨブに答えようとしていない。




 親鸞は、人は「宿業」により善をなしたり悪を成したりするとし、悪人となるも善人となるも因縁しだいと説く。ここには自由意志というものは存在しない。一見、自由意志の行動のように見えても、その背後には因縁が存在し、自由意志の入り込む余地はない。人間の意志や行為は、人知を超えた因縁の力によってなされている。つまり、人間は本質的には、善人も悪人もなく、それは因縁によって行われているのであり、本質的には変わらない人間であるとした。ここには、「ヨブ記」と同じような、人間の作為的な思考を無力なものとして扱っている。




不可思議なこと

 思議とは「考える」あるいは「分別」のことである。つまり、不可思議の意味は、物事を良いとか悪いとか考え、分けることは不可なのである。

結局、善人、悪人という識別をしないことや人を裁かないという慈悲のみが、人間を許しと寛容という平和な世界に導いていくことになる。




「ヨブ記」「歎異抄」、キルケゴールの「おそれとおののき」とも、人間の乗り越えられない苦悩、人知ではかなわない宿命に立ち向かっていく悲しみの中に、人生の価値や意味が隠されていることを示唆している。


そして、その人生の価値や意味とは、自分自身の体験には一切無駄なことはなく、その体験は自分自身の人生を成長させるためのものであることを教えている。




自己受容の広がりと深さを知性ではなく、直感、あるいは脳幹で感じる。

これは、究極のリラクセーションである。