桜が待ち遠しいですね。



拙宅近くの公園の桜と

福岡本校近くにある東長寺の桜

(昨年撮影したもの)

ストレス学のエッセンス@美野田啓二

ストレス学のエッセンス@美野田啓二-福岡本校近くの桜

歎異抄から



歎異抄は親鸞の没後ほぼ20年から30年後に唯円によって著したとされている宗教文献の代表的な一つである。

その構成は、序文と本文18章からなり、前半の9章は親鸞自身が語ったもの、後半の9章は唯円自身の解釈が述べられ、最後には後記、記録、奥書が付されている。

歎異抄の知られていることは、「悪人正機説」である。親鸞は悪人こそ正しく救われるべき素質であると言っている。これについては、唯円の文を参考にしていく。




「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世にひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条,一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行いにても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためならば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき


 要約すると、「善人でさえ浄土に生まれることができる。まして悪人が生まれられないことはない。なぜなら、自分の力に頼って善い行為をし、その功績によって浄土に生まれようとする人は、いちずに阿弥陀さまを頼む心に欠けているから、救いの対象にはならないのだ。このような自力の心を翻し、ひたすら他力を頼むと阿弥陀さまに目を開かれ、浄土に生まれることができる。どうあがいても煩悩から離れられない私たちは、どのような修業をしても迷い(煩悩)の世界を離れることはできない。(中略)いちずに他力を頼む悪人こそが相応しく、悪人が浄土に生まれないはずはない。」

 ここで、懸念されるのは、「本願ぼこり」(本願を誇りあまえる)の問題である。単に「悪人」が浄土へ行けるという解釈は、親鸞を悩ませている。したがって、13章では、「本願があるからといって、悪行をしてはならない」と説いている。これは、人間は悪行をする力があっても悪行をしないことが大切であるという意味にも理解できる。



さらに、歎異抄13章の後半には、再度、善人の人間中心の考え方を否定し、善行の相の装いが虚仮不実であると痛烈に批判している。さらに、本願ぼこりでは、これをするものも批判するものも悪人であるとし、両者とも本願を信じているという点では、本願を誇っているという同罪にして、他力の要件と受容している点で、親鸞の深い苦悩がうかがえる。(つまり、人間の作為を否定している)



 親鸞は、この世の苦悩が浄土を生み、この世の悪が阿弥陀との出会いの縁であると説いている。悪がなければ善もなく、善がなければ悪もない。この二つは対立しているように見えても、実は対立していないことがわかる。



自然は「みずからしからしめる」という意味である。

人間の善行の作為や意図を親鸞は戒めている。この点においては、「ヨブ記」が言わんとすることと重なる。



何のために我々は良い行いをしようとしているのか。


道元が座禅を行うことに対して、「なにもならぬ」と説いたことを

我々は、深く考察する必要がある。