しばらく暖かい日が続きましたが、やはり2月ですね。

また寒さが戻ってきました。

各地で雪が降る予報が出ています。

風邪をひかないように気をつけましょう!




哲学者と科学者の違いは?



科学という職業が成立したのは19世紀のヨーロッパである。では、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンたちは科学者ではないのかということだが、彼らは神学、哲学、占星術、数学などを研究した「哲学者」として自他の認識があった。



つまり、もともとは哲学と科学の原点は同じであり、ものを考えるということがすべての原点である。


科学は、今あることが原因になって、次の瞬間の出来事が起きる。原因と結果の間が決定論的な構造にあるとすれば、科学は世界に対する説明と記述を提供することになる。


しかし、その後、われわれは原子や素粒子からなるミクロな世界観を取りいれることになり、ここではニュートン力学的な法則では説明がつかなくなっている。決定論的世界像ではなく、確率論的な正解像を描き出さなければならなくなっている。


今の科学は、マクロとミクロの世界をどう埋めるかが大きな課題である。また、マクロの世界でもニュートン力学的な決定的な力学では片付かない問題があり得る。それは、様々なパラメーターが存在することによって引き起こされる不確実性の問題である。特に人間という不確実なファクターが介入する現象がそうである。





 私たちの取り巻く世界は不確実性に満ちている。今後、どれほど科学が進歩しても自然を解明することは不可能なことである。もちろん、これは自然に限ったことではなく、「人間」を解明することも同じである。だからこそ、科学者も哲学者も真理の探究を行ない続けるのである。




 哲学は科学を含めてあらゆるものごとを批判的に考察する。哲学には物理学や経済学のように特定の対象領域を特定の方法で考察するのではない。あらゆるものごと、あらゆる知識、あらゆる方法を自らの問題として引き受けることができる。

そして哲学の担い手は「私」である。哲学はこれまで説明されてきた哲学的諸思想を学ぶだけでは全うせず、自分自身で「哲学する」という能動的営為によってのみ、その内実が示されるのである。




 人間は世界および自己自身と関わる存在である。つまり、世界および自己が自己自身にとって問題になるという方法で自己を確認ながら存在するものである。この固有の関わりゆえに人間にとって、自己自身を含めた全体の世界が、すなわち自己と世界の統合された世界が意識的、潜在的対象になっている。




 哲学は人間の存在においてとらえなければならないと考える。それは、人類の歴史において哲学が登場したその必然性が、現実に即して理解されるからである。人間は自己自身および世界と関わるがゆえに、自己自身の目の前にある事象(世界)に驚きをみせる。


その驚きは、自己自身が関わっている世界の深遠さゆえである。つまり、人間は哲学を避けることができない、哲学は人間の必然的な行動であるといえる。「哲学とは何か」という問いは、「人間とは何か」という問いと根源は同じである。




 「人として生まれ、人間として育つ」というが、人として生まれた原因と結果は、科学的な説明が可能であり、なぜ生まれたかという問いには科学は答えられない。つまり、科学は現象を捉え、哲学はプロセス(時代)を捉えることに活動していると考えることができる。

人間の思惟は、「なぜ生まれたのか」「なぜ生きるのか」「なぜ死ぬのか」という科学的根根拠よりも、「自己自身の存在」において強烈な確認欲求がある。それゆえに「哲学」が諸学の学であるといわれているのであろう。






 また、科学と哲学を比較することもあまり意味があることではない。確かに、科学は観察と説明、因果関係など諸現象を追究するものである。それゆえに、人間は誰しもより良く生きるための哲学者であることが望ましいが、科学者である必要はない。

しかし、その哲学も科学によって進歩し得るものであり、哲学は科学によって変容していく相互関係がある。つまり、科学と哲学は対立するものではなく、相互に依存、共生することによって、人間の真理にアプローチすることが可能になると考えることができる。



科学は今や人間の欲望に奉仕する傾向を持つようになっている。つまり、科学が手段化され、理性が目的にかなう能力ではなく、任意の目的に対する手段の適合性を問う道具と化していく。

正しい科学の発達には、人間の生存条件の安定と幸福のためという理念に基づき、過去の哲学を検証して、新しい時代を哲学することが不可欠ではなかろうか。



次は「ヨブ記」について触ていきます。












 科学と哲学は不可分







人間とは何か