お早うございます!

今日は、「哲学」と「科学」の違いについて

考えてみます。

認知という問題を科学することは可能なのか?

ということですね。



カントによれば、「ひとはけっして哲学そのものを学ぶことができず、高々哲学することを学ぶことができるだけ」と説いている。哲学的活動成立のためには多くの哲学者の思想に接することが必要であるが、それだけでは哲学的活動が成させているとはいえないのである。

そこで、「哲学とは何か」という考察をおこない、さらに科学を明らかにしたうえで、哲学との違いを考えてみる。

哲学とは何か

「哲学」は西周がJ・S・ミルの「功利主義について」などに出てくる英語のphilosophyを「欧州の儒学」と解して「詩経」的な「哲王」「哲人」たらんとする希哲の学としてこれにまず「希哲学」の訳を与えて、「哲学」と簡略化したことに始まる。また、philosophy語源がphileo(愛する)またはphilia(友愛)sophia(智恵)を組み合わせたphilosophiaという古代ギリシャ語になり、「知恵を愛する」という意味の合成語であることも関係している。



哲学は意味づけや根拠づけをおこなう。すなわち、われわれはそれぞれ歴史的諸事実の蓄積だけに安住できないでいる。なぜ、そうなったのか、なぜ、そうならざるをえないのかと、いわば全事実を前にして、その根拠や意味を問わざるを得ないのである。さらに、この「なぜ」という根拠や意味への問いを、実際に歴史的事実がこうだという単純な形で納得はできないのである。なぜ、こうなったのかという「真理」の発見の体験がなければならない。「学問」という意味も、「私が問うことを学ぶ(習う)」という哲学の基本が込められている。



 西田幾多郎は哲学を「哲学はあらゆる知識の最高統一であり諸学の学である」と定義している。そしてこの定義の意味を次のように説明している。「哲学はあらゆる知識の根底を明らかにすることによってそれを統一するものである。



 プラトンはイデアの追求をもって哲学の課題とし、善のイデアをイデアのイデアと呼んでいた。アリストテレスは学問の分類を行ない、第一哲学を提唱している。また、西田の定義には、理論的、認識的規定だけでなく、実践規定も含まれている。この点では、デカルトの「哲学の樹」がそれ例であり、彼によると諸学問の完全な認識を前提として、最高かつ完全な道徳が完成するとしている。西田は、哲学が知識の最高統一を求める根拠を、人間が本来持っている根本的欲求であると規定している。


(イデアの意味)

「イデア」という言葉は「見る」という意味の動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している。ideaという言葉で、形は形でも、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。理想ともいえる。



科学とは何か



 自然の科学はある事実がなぜ起こったかを「観察」してそれを「説明」という形で理解しようとする。

つまり、AとBとの間には「AならばB」という形式で述べられる因果関係の成立からBが生じたと説明する。このとき、判明した法則が事実Aの根拠とされ、先行する事実Bの原因とされるのである

例えば、人の誕生に関して、精子と卵子の結合を原因とする染色体や細胞分裂に関する法則によって説明される。したがって、科学とは諸事実に関する法則を探求することが最大の任務であるとされている。



 また、社会科学の場合は、人間の行為や意図が介在するために、事実の説明は事実間の因果関係では不十分である。それゆえに、研究者自身の「理解」や「解釈」という契機が重要視される。

哲学と科学の相違

哲学には科学のような哲学独自の探求方法が存在しない。その理由は、探求しようとする知識や智慧が様々な背景を担っているからである。哲学的方法は大きな寛容さを保ち、ひたすらわれわれ一人ひとりに与えられた諸事実、諸現象の根拠を問い続けることになる。


続く・・・