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現実と理想の否定



 西洋の伝統的な考え方は現実と理想を、事実と当為を分ける。プラトンは感覚によって把握される現実の世界と理性によって把握されるイデアの世界を分けている。プラトンはこのようなイデアの世界は単純な観念の世界ではなく、現実の感覚的世界を超越したところに実在すると考えていた。


さらに、感覚的世界は不完全で盛衰滅亡する世界であるが、イデアの世界は完全で永遠であるとした。プラトンはイデア界を観想しなければならないと説いている。

この二元論的な世界観は、アウグスティヌスの「地上の国」「神の国」、カントの「自然的世界」「叡知的世界」という思想にも影響している。



 西田は、このような西洋の現実的世界の背後に、あるいは現実の世界を超越したところに実在の世界を考える二元論を否定している。西田は現実の世界すなわち現象界を唯一の実在界と考えるのである。



 西田は現実を重視している、西田にとって、今、ここ、がすべての世界である。この現実の世界は、われわれの意識や自覚が深まれば深まるほど、その自覚の深さの程度に応じて深遠な姿をあらわしてくると述べているが、この西田の言葉は、日常(現実)という世界に徹底的に生きることへの方向を示すものである。これは、仏教でいう「一切唯心造」、われわれの住む世界は、われわれの外にあるのではなく、われわれの中にあるということであろう。つまり、西田はわれわれの日々の生活体験こそ人間形成に役立つものはないと考えたのではなかろうか。



 西田は理論と実践の区別を排除する。西洋の近代哲学は理論と実践を、認識と行為を区別している。そして、理論の原理と実践の原理を別個のものとみなしている。カントは理性を理論理性と実践理性に分け、その適応領域を自然的世界と道徳的世界に分けた。

 西田は、東洋の伝統的な思想である「知行合一」の伝統を受け継いでいる。そして、西田は「純粋経験」を唯一の実在と考え、真美善の統一を行なった。



東洋の空と西洋の有

 西洋思想は本来、有の立場をとる。いわゆる実体を根本とする。これに対して東洋の思想は、ただ一つの単独の存在を認めず、存在は互いに相依相持であるとしている。東洋思想では、決して単独で絶対的に存在するものはない。これを空といい、諸法無我という。

 西洋思想は、普遍的全体的なものが基盤で、相対的なものがお互いに因果的に相対的に依存して生起存在すると考えている。西欧思想の根底には実体というものが明らかである。

アリストテレスやスピノザ、カントにいたるまで、実体や原因という二つが西洋思想の根幹をなしている。因果と実体とは分離不可能なものである。繰り返すが、東洋思想、仏教思想は実体の否定である。

 

釈迦は、次のように語る。



およそ苦しみが起きるのは、すべて起動を縁として起きる。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない(スタッタニパータ、第三 大いなる章744



西田の独創性

 西田哲学は、東洋的思想、西洋的思想を踏まえつつも西洋哲学の流れを統合した独創的な哲学と考える。東洋的思想とは仏教的、禅的な思想であり、西洋思想とは、ヨーロッパキリスト教の思想である。

 西田は、その著書の中で曹洞宗の開祖である道元のことばをもちいている。


道元は、


「仏道をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己をわするるなり、自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむなり」という。


 西田のいう「自覚」は対照的思惟の全くの否定である。道元のことばから、西田の考えが浮かびあがる。それは、考えられた自己、「私」というものへの執着が西洋的思想であるとすれば、西田哲学の根幹は、忘れようとしている自己も「無」でなければならない。しかし、これは自力で起きることではなく、われわれの意識によって起こることでもない。それは、あるがまま全実在として絶対的な否定が即ち肯定として起こることである。それを心身脱落と道元は述べている。 西田哲学の「無分別」は、このように道元の「心身脱落」につうじる。



 西田哲学の背景には、老荘思想の無為自然、親鸞の自然法爾、道元の自然観、良寛の無為にして自然な生きかたなどが脈々と息づいている。その息づかいの近隣には、古代の西洋思想はじめ、デカルトやカント、スピノザ、ヘーゲルなどの存在を知ることができる。


 A・ネスは自己実現の観念を次のように述べている。


「自己は自分と他者を一体化させることができるであろう。そして、他者と一体化した自己こそ本来の自己すなわち宇宙的自己なのである。通常、われわれは自己の外に環境があり、自己は環境の外にあると考えている。しかし、本当は自己が環境であり、環境が自己なのである。自己を環境や他者から隔てるこうした障壁が取り除かれれば、自己は無限に自己自身を拡大していくことができ、あらゆるものの内に自己を見るようになる。こうして自己は無限に自己自身を実現していくことができるであろう」



 この言葉には、西田の行為的直観や無分別の思想や二元論的な立場ではない様に受け止めることもできる。確かに、ネスの自己実現の思想には、自己が対象を包み込んでいく方向は他者との同一化である。しかし、ネスのいう同一化は、自己の「共感」という主体性から生じているものであり、自己肯定のプロセスでもある。ここに、西田の無限に自己を否定し、自己を消失していく方向とは明らかな違いがみられる。


また、鈴木大拙は無差別・無分別の世界を霊性の世界と述べている。われわれは、常に知性的分別に繋がれていて、何事も二分(二元論)しないとならならい。確かに知性は分別の世界では物事の理解に役立つ。しかし、無差別な世界に入ればその必要性が消滅する。


鈴木はその著書の中で、禅者が「知を殺せ」ということを紹介している。殺すとは、知を超えるという気味であろう。


さらに続く・・・