今の総理大臣は「最少不幸社会の実現」を指標としている。

この最少不幸社会は、ベンサムの功利主義から引用したものと考えられる。

そこで、この功利主義を考えてみようと思う。


選択には、大きな2つの方法がある。

一つは、イギリス功利主義者のベンサムがいう「最大多数の最大幸福」というものと、そして二つめはドイツの哲学者カントの義務論の立場だ。

 ベンサムのいう功利主義とは、有用性という言葉によって表現されている。

何のための有用性かは、幸福のための有用性である。

幸福の価値観は人によって異なり多様性がる。ベンサムのいう幸福は、

質的、量的なものを満たすものである。

しかし、こうした功利主義はカントの義務論の立場から批判を受けている。


 例えば、余命6カ月のガン患者に、「ガンではない、ゆっくり静養しなさい」と

嘘をつく、その結果、ガン患者は安心して、残された人生を苦悩することなく過ごせたとする。これがベンサムを代表する功利主義者の意見である。

しかし、カントを代表する義務論者は、真実を伝えることは人間の義務として、

告知を行うのである。


あなたは、功利主義をとるのか、義務をとるのか…。


 一般社会においては、功利主義的立場に立って考えた方が良い場合が多い。

しかし、優劣をつけることは極めて困難である。

人間が生きるということは、哲学することでもある。


ここからは、生きる上での倫理というものを考えてみよう。

「倫理」は明治以降の学問名称であり、英語のEthics ドイツ語のEthik の訳語である。そして、これらの言葉はギリシャ語のエトス(ethos)及びエートスにまで遡ることができる。また日本語としての倫理学の語義は、「人の集まり」「守るべき秩序」「おさまる」「すじみち」「道理」などが興味深い。

また、倫理と同じような意味で「道徳」について語るが、これはヨーロッパの近代語「モラル」(moral)の訳語である。


 人間にはルールや規範が必要である。なぜなら人間はルールを守ることによって、

人間らしく幸福に生きていくことが可能になるからだ。

もし人間が自分の好きなことを好きなようにしてしまえば、

人間は欲するものを手に入れ、好まないものを避ける行為になっていく。

 欲求を満足させるのは、競争原理の中で起きる。

その結果、競争は争いを起こし、人間にとって大きなストレッサーとなる。

それが今のストレス社会の現実でもある。


 倫理的行為とは、各人がお互いに相手の権利を尊重し、自分の義務を果たすことである。誰もがそのための一般的な判断方法として、「相手の立場に立って物事を考え、 そのうえで行為せよ」ということである。くだいて言えば、


「人からしてもらいたいことを人にもせよ」あるいは

「人からしてもらいたくないことは人にもするな」ということである。


これは、ストレスケアの精神に通じる。


 倫理とは、幸せに生きることはその人にとって「善」である。

これを手に入れることは、何ものによっても邪魔されてはならない人間の自由であり、

生まれながらの権利である。この権利をお互い認め合い、尊重すること。

尊重することが人間の義務である。この義務を果たすことが自分の自由に、

権利になる。このような概念を倫理と考えてみてはどうだろう。