自然性と人間


自然を機械的に観察し説明しようとするのは自然科学である。科学は自然を支配して人間生活を安定させるという目的がある。


確かに気温や気候、植物や動物を観察することにより一定の規則的な説明は可能である。


しかし、自然と関わっている人間は果たして機械的に説明が可能であろうか。


確かに生理学の分野ではある程度の規則性を証明する説明ができるかもしれないが、人間の精神性はあまりに多様性があり、これを機械的に説明することにはかなり無理がある。


よい例としては心理学の分野である。


心理学が科学であるかどうかはここでは触れないとして、すくなくことも科学的にアプローチしようとしている立場であることに違いない。


この点、心理学はまだ人間を観察の上においても説明のうえにおいても科学性を持っているとはいい難い。


いづれにしても、人間存在は不確かで不安定な存在である。




人間の脱自然


人間生活は安定を求める、そして安定以上の安心を求める。


さらに幸福体験を求め、限りない欲求のエネルギーを放出している。


この欲求は人間社会を発展させるには都合が良いが自然界にとってはまことに不都合なものである。


つまり、自然界と人間社会は相反する、相克する関係にあるのか。


古来、哲学者は自然と人間の関係を明らかにしようと挑んできた。


しかし、その結果、機会論が代表するように、人間の都合のよい自然観が生まれ、遂に人間は自然を支配する、あるいはコントロールするという見解に至る。


ただし、そこには神の存在を頂き、人間が最高位に立たないという多少の遠慮はある。



人間生活における自然法


神が自然とするアニミズムにせよ、神が人格という信仰にせよ人間は自然に依拠しなければ生きることは不可能である。


依拠するという意味は、それだけ環境の変化に右往左往するということにもなる。


それが本来の人間の進化の姿である。


右往左往する中で、あるいはその過程において、変化に適応しようとする働きは、なにも生物的なことに限らず、人間の精神性においても同じである。


しかし、人間の適応におけるプロセスを「問題」「障害」として、生理的、心理社会的問題などの病理としているとすれば、その治癒に果たして人為的な解決法に妥当性があるのであろうかはなはだ疑問である。


もし、このプロセスにおける変化を「病理」として介入すれば、その対象の進化や適応力は喪失してしまう。


だから、これを対処療法と呼ぶことになる。


例えば、生物的進化において陸に上がろうとした魚に呼吸が苦しいからといって、酸素を誰かが与えればその魚はいつまでたっても危険な天敵がいる海からは逃れられなくなる。



自然の本質


では、人間生活にどう自然を取り入れればよいのか。それには、自然を定義する必要がある。


自然の本質を理解しなければ人間生活には利用できない。


ただし、この本質とは、観察することよって知りえる規則性ではない。


自然は「極端でなく、偏らず、ありのまま」の様である。


つまり、無為である。そこに当たり前のように作為がない。


作為はないが変化がある。


この変化こそが、自然の本質である。


絶え間ない変化は、人間生活を苦しめるものでもある。


しかし、変化を客観とせず、主観に置くことにより、この変化は人間の自然性を再活性させることになる。


人間が自然の一部とする思想は東洋において思索されているが、ここには自然の動きを見抜き、それに応じた生活をすることへの働きが込められている。






長い文を読んでいただき、ありがとうございました。